第15回公演について |
あらすじ |
時は嘉永元(1848)年。ところは登米(とよま)郡森村の大網。芝居小屋「京楽座」の座長・宇藤留蔵(うとう・とめぞう)が危篤との知らせを聞き、留蔵を師匠と慕う多くの村人たちが集まっていた。 留蔵は、上方で一世をふうびした歌舞伎役者。耳の病で引退を決意し、故郷に帰ってきた。留蔵はここで静かな余生を送るはずであった。ところが、村人たちに芝居の指導をせがまれ、引き受けることに。指導していくうちに、留蔵の中で眠っていた「芝居の虫」が騒ぎ始めた。とうとう、村人たちと芝居小屋「京楽座」を興したのだ。 しかし、歌舞伎役者・宇藤留蔵が誕生するまでには、知られざる物語があった。18歳の留蔵は、故郷を後にし、一人、芝居の世界に飛び込んだのだった……。 |
登米市が生んだ名優 宇藤留蔵の生涯 |
寛政元(1789)年 文化2(1805)年 天保14(1843)年 嘉永元(1848)年 |
登米郡森村大網(現在の登米市迫町佐沼大網)に生まれる。 助高屋(すけたかや)の一座が、森村大網の千枝家の敷地内に芝居小屋を建てて興行し、連日大入りとなる。幕引き役を買って出た18歳の留蔵は、そのまま一座に加わる。 *その後、上方歌舞伎で助高屋四良三郎(すけたかや・しらさぶろう)と名乗り、名女形として活躍する。 耳を患い引退、故郷に帰る。芝居小屋を作り、近郷近在の同行者に芝居や踊りを指南する。おいとこ踊りや数え甚句に振りを付ける。地歌舞伎「米岡芝居」の指導にも当たったという。 7月14日逝去、天真山林昌院に眠る。 (三浦喜一郎著「名優 助高屋高助三代目(助高屋四良三郎)伝記」より) *「留蔵は上方歌舞伎の名跡、助高屋高助だった」との説が地元に残る。しかし、それを裏付ける確たる資料は乏しい。 |
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