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 第17回公演について

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登米祝祭劇場開館20周年記念
第17回登米市民劇場「夢フェスタ水の里」

中田町偉人伝 近代医学の羅針盤

石川桜所物語
    

○原作小説/近代医学の羅針盤〜桜所 石川良信の生涯
                   (山田悦且著)
○脚本/大友久仁恵
○演出/菅原恵子 伊藤正裕 沼倉利光

主催/登米市 登米市教育委員会 (公財)登米文化振興財団
主管/夢フェスタ水の里実行委員会
企画/夢フェスタ水の里制作委員会

■公演日程・動員数
平成27年
3月7日(土)
午後6時30分開演 入場者692人
3月8日(日)
午後2時開演 入場者967人

■会場
登米祝祭劇場 大ホール


題字/山内 晨
背景写真/小林武敏
 あらすじ
 幕末の登米郡桜場村。江戸で修業した若い蘭方医・石川桜所が漢方医の父雄仙とともに村人から厚い信望を得ていた。帰郷の要因となった肺の病も癒え、妻子を得て穏やかな日々を送っていた。
 だが、妻が急死したのを機に、蘭方を更に究めるための諸国遊学を始めた。彼は幼くして姉と母とを失い、自分と同じ不幸を他人には味わってほしくないと考えたのだった。各地で見識を広めた後、再び江戸に戻った彼は江戸の師匠・伊東玄朴の下で頭角を現し、将軍家の奥医師となった。幕府の崩壊直前には15代将軍徳川慶喜の侍医となり、奥医師の最高峰「法印」に上った。
 大政奉還後、桜所は瑞巌寺住職の世話で松島に開業した。しかし、維新政府に歯向かった大罰人として投獄され、処刑される寸前に陥った。
 その頃、新政府は陸軍に軍医部を新設しようとしていた。後の元勲で長州藩氏だった山縣有朋が、元幕府奥医師の松本良順に軍医総監としての出仕を促した。良順はかつての先輩である桜所に軍医監としての協力を要請した。二人は軍医部の育成を通して西洋医学を全国に広める「牽引役」となった。

 旅に学んだ石川桜所の足跡

年 号

西 暦

記    事

文政 8

1825

桜場村籠壇(現在の宮城県登米市中田町上沼)に生まれる

 天保13 1842 石越村の千葉明渓(華岡青洲に学んだ医師)に入門

弘化 元

1844

江戸で蘭方医の伊東玄朴(「象先堂」を主宰。近代医学の祖)に入門

嘉永 2

1849

肺を患い帰郷

嘉永 3

1850

諸国遊学の旅に出る(箱館→松前→青森→秋田→山形→富山)

嘉永 5

1852

金沢に滞在し、黒川良安(シーボルトに学んだ、金沢大学医学部設立の最功労者)の下で蘭書翻訳などに従事

嘉永 6

1853

京都→大坂→香川→愛媛・宇和島を旅する。宇和島で後に妻となる千里と出会う

安政 2

1855

長崎で開業。若き日の福沢諭吉(後に蘭学塾「慶応義塾」を開く)が桜所の門をたたく

安政 4

1857

大坂に緒方洪庵(大阪大学医学部の前身「適々斎塾」を主宰)を訪ね、その業を助ける

安政 5

1858

伊東玄朴らと図り、お玉ヶ池種痘所(後の東京大学医学部)を設立。米国総領事ハリスを治療する

安政 6 1859 全国的にコレラが大流行。独自の療法で治療に当たり、名を成す

文久 2

1862

幕府から奥医師に任命。後に法眼に叙せられる

文久 3

1863

徳川幕府14代将軍徳川家茂とともに上洛。後に江戸に戻る

元治 元

1864

一橋慶喜の治療のために上洛。その後、江戸に帰る

慶応 2

1866

医師の最高位である法印となる

慶応 3 1867  大政奉還
慶応 4 1868 水戸に幽閉された徳川慶喜に付き随う

明治 元

1868

慶喜と水戸で別れ、桜場村に帰る。その後松島に移る

明治 2

1869

仙台藩の役人に捕縛され、9カ月間投獄される

明治 3

1870

出獄、任官のため上京
明治 4  1871  松本良順(後の陸軍初代軍医総監)とともに明治政府に任官
明治 7  1874   駿河台に洋館を新築。軍医監に昇進。翌年には従五位に昇叙
明治15  1882   入寂、谷中霊園に眠る

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