登米市登米町にある老舗旅館の跡取り、葛西朝彦と大崎政江は好意を寄せ合っていた。だが、ともに伴侶を迎える立場に悩んでいた。
2人は古代から受け継がれる登米の歴史に興味があった。特に340年の伝統を持つ登米秋まつりが好きだった。けれども、手間のかかる祭りに懐疑を抱く者が出る一方、囃子を担う子供も減っていた。祭りを取り巻く現状を憂えた指導者の徳治は若い衆に祭りや山車の発祥を語り始めた。
元禄2(1689)年の梅雨。登米伊達家5代当主の村直は隣接する涌谷伊達家や津田家との蟠りに悩んでいた。ふた昔前の伊達騒動が原因だった。そんな折、城下に一宿した江戸の俳諧師主従が仙台祭りの山鉾を話題にして立ち去ったことを知った。
登米秋まつりは14年前、疱瘡快癒の御礼に村直が始めた。そこに山車を加えれば「暗い雰囲気を一掃できる」と母藤子の方に話した。それを聞いた母は「当家と関わりの深い京の雅を取り入れてほしい」と懇願した。その結果、各町内が絢爛な山車を出すことになり、若い衆が山車造りに掛かった。
徳治が言った。「最初の山車を造ったのはお前たちの先祖」。その言葉に若い衆は「祭りを無くせない。登米以外の仲間に声をかけよう」などと心を新たにした。朝彦と政江はその中に登米市や登米町、2人の将来のヒントが隠されているのを知った。
祭り当日。木遣りが響き、山車が巡行した。その中には登米以外の各町から駆けつけた面々がいた。
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