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 第21回公演について

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第21回登米市民劇場「夢フェスタ水の里」

「正義」を受け継ぐ者たちへ
          〜津山 イナイリュウの伝言〜



○脚本    柳沢 清子
○補作・演出 渡部三妙子

主催/登米市 登米市教育委員会 (公財)登米文化振興財団
主管/夢フェスタ水の里実行委員会
企画/夢フェスタ水の里制作委員会

■公演日
令和2年3月7日(土)・8日(日)
※新型コロナウイルス感染症予防対策および3/4〜3/31臨時休館のため、公演は中止。映像収録のみを実施した。

■会場
登米祝祭劇場



イナイリュウ模型制作/亀井陽逸&模型作成グループ
ドローン撮影/浅井洋幸
題字・似顔絵/秋山清人
 あらすじ
 大正初期から昭和初期にかけてのこと。北上川の度重なる洪水を解消するため、国は大掛かりな分流工事を推し進めた。
 新しい北上川は旧本吉郡柳津町(現在の登米市津山町柳津)を集団移転させて掘削されることになった。移転は一関街道の宿場として栄えてきた歴史と伝統、地域コミュニティーが消滅することを意味した。
 津山町柳津の人々は苦慮の末、周辺の村々を救うことを第一義に考え、国の方針を受け入れる選択をした。だが、遅々として進まない移転により、想像を絶する艱難辛苦を味わうことになった。
 他人のために自己を犠牲にした津山人の「正義の心」を、新北上川の掘削で発見された恐竜の祖先イナイリュウの化身の目を通して再現する。
 
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 公演にちなむ津山の主な歴史
 和暦 西暦  できごと 
 元禄2年 1689  旧暦5月11日 松尾芭蕉が弟子の河合曾良とともに石巻から矢内津(柳津)を通って戸伊麻(登米)に一宿する 
 享保14年 1729  7月 四良次は徒党を組んだ首謀者として柳津村において獄門に処せられたとされる 数え18歳の若さだったという 
 元治元年 1864  締切沼周辺に奇病・黄牛病が流行し始める 
 慶応2年 1866  黄牛村の邑主・高屋養仙が仙台藩医学館講師典籍学頭を経て範囲頭となる 
 明治6年 1873  5月 高屋養仙、仙台南町の邸を引き上げ、黄牛村に居を移す 
 明治8年 1875  10月 柳津村と黄牛村が合併して麻崎村に、横山北沢村と横山南沢村が合併して横山村となる 
 明治19年 1886   9月 黄牛病に侵された鈴木安右衛門が死去 54歳 遺言により旧柳津村の福田寺で解剖 執刀者は宮城医学校付属医院の柴田勝央院長 黄牛病の原因が肝臓ジストマと判明 日本肝吸虫症での解剖例としては9番目
 明治27年 1893   5月 伊達小次郎・小原縫殿之助の墓碑を横山右念山に建立する
 明治39年 1906  11月 麻崎村に町制を施行し、柳津町とする 
 明治44年 1911   4月 北上川分流計画が帝国議会で全国の河川改修第1期工事に組み入れられる
 明治45年 1912  1月 町市街地移転に関する実行委員会を設ける 
     7月1日 移転先を小川原囲(現市街地)などに決める
 大正2年 1913  2月10日〜7月28日、移転料及びに買収費が交付される 
 大正9年 1920  9月 柳津小学校校舎を現在地に移動
     9月20日 柳津町・亀井陽儀が不帰の客となる
 大正10年 1921   10月 柳津町役場を現在地に移転 この年に17戸が移転
 大正11年  1922  この年までに残る322戸の移転が完了
 大正14年  1925 新川の開削工事が終わる 跡地整理の工事はなお続く 
 昭和6年  1931  3月12日 新北上川が通水
 昭和14年 1939  8月 新北上川沿いの右岸側道そばでイナイリュウの化石が発見される
 昭和17年 1942 締切沼を所有者の桃生郡北方水利組合から買収 
 昭和29年  1954  11月 柳津町と横山村が合併して津山町となる
(略・参考文献・津山町史など)

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